思考の絞りカス

日頃の思考の絞りカスを盛り付けました

善と善行について

4月も終わりに近づき、桜に狂喜乱舞していたとは思えないほどの落ち着きを見せていた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?
桜に狂喜乱舞していた人たちは、明日からの大型連休に狂喜乱舞している事と存じます、俺もその一人。

新生活を始めた方はそろそろ慣れてきましたでしょうか?
新たな環境や土地、仲間、生活は戸惑いこそすれ、振り返ってみれば素敵な思い出に変わっている事でしょう。今、昔の記憶を思い出すと、キラキラ輝いてはいませんか?そんな具合に、今の生活もキラキラ輝いてくるものです。



と、ここまでの出だしはとても常識人のような文体ですが、実際のところ俺はそんなに出来た人間じゃありません。
自ら望んだ環境に身を置きながら「辛い」だとか甘えてんじゃねえぞって思いながら文章打ってます笑

人はこうして、自分の心中を明かさずに取り繕い、誤魔化して生きています。
本心と違う事を言って笑う事もしばしば……経験ありますよね?

そんな中で人は、まれに「優しい人」を見つけます。いい人、とも言いますね。
そしてその人に好意を持ち、憧れ、場合によっては惹かれます。

  何故か?
  何故だと思いますか?少し、考えてみてください。



心地よい停滞を許してくれるから、ですよね。
辛い……と言えば
「今のままの君で良いんだよ」

面倒くさい……と言えば
「それは君にとって必要な事?やめても良いよ!」

というように、停滞を許す場として、存在してくれているからですよね。
それ自体は悪い事じゃありませんし、筋は通っています。だからそういった存在を否定しているわけではない事をあらかじめ記しておきます。

ですが、それらの言葉を向けてくる人の感情は、優しさではありませんよね。

許しが優しさならば、世界の様々な論理的決断に基づく許しが、優しさや甘えなどという曖昧な理由の産物になってしまいます。
例えば裁判の情状酌量、あれが裁判官の優しさでない事は明らかですし。
例えば宗教の懺悔、あれは神の教えの下で行いを告白し、聞いてもらう事に意味があり、神父の優しさではないですよね。

では許しとは何か?
許しとは、誤った解釈による価値観のズレを、より論理的、客観的な視点において、正してやる事。
良くも悪くも人の価値観は揺らぎますから、第三者がそれを正してやらなければ、いらないことに悩んだり苦しんだりしてしまう。
でもその価値観自体が誤っていたならば、その苦悩は必要ないものです。それを教えてあげる事が、許しだと俺は思っています。


世間一般の言う「優しさ」は、この「許し」による重荷の解消が、あたかも優しさによるものだという誤解の下に発言されているような気がしてなりません。そこの区別から、まずはさせていただきました。

やっと本題に入りますが、優しさとは何か?
こんな長い文章を読んでここまで来てくれた方がいらっしゃるなら、それは一つの優しさだと思いますが……笑

優しさとは、俺の定義では「善」です。
善意とか善行とか性善説、とか言いますよね。そのニュアンスの善です。
善ってよく聞きますが、あまり深く考えないんじゃないでしょうか?
俺は、
「善とは、見る人から見て正しい方向性の行動や思想」
だと定義します。
当たり前っちゃ当たり前ですよね。

想像してください。
あなたは中世の婦人です、夫は勇猛果敢な軍人として、甲冑を着て戦いに赴く生活をしています。そんな夫をあなたは愛し、祖国や家族のために戦う姿を尊敬しています。
そんなある日、とても大きな戦いが起こりました。長く続いた戦いが終わり、決着するほどの戦でした。
あなたは自国が勝ったという報らせを聞き、大喜び。夫も長い戦いの末、自分の守りたいものを守れて満足気です。
夫は功績を讃えられて、英雄として祀られることになりました。
不自由のない生活を送っていたある日、夫が刺されたという訃報が入ります。
犯人は敗戦国の国民で、あなたと同じように軍人の夫を持つ女性でした。
聞けば、あなたの夫に自分の夫が殺された恨みを晴らしたくて、刺し殺したそうなのです。
あなたは、その女性を悪だと断じ、罰せられる事を許可しますよね? むしろ、私刑として何か報復でもしてやりたくなりますよね?

「いやいや、俺はそんなことしないよ?」
そうですか? あなたの大事な人が目の前で殺されても、あなたは同じ事が言えるでしょうか?

善とは、移り変わるのです。
見る人の心持ちや視点によって、いとも簡単に変化してしまうものです。

つまり、この行動は正しく、善だろう! 
という断定が出来ないものでありますし、いつだって「自分の中の善でしかない」という事を肝に銘じておく必要があるのです。

電車で老人に席を譲ったのにも関わらず怒鳴られて、腹を立てている少年のコラムが新聞に掲載され、物議を醸した出来事がありましたが、ご存知でしょうか?
まさにあれこそ、善意や善行の意味を吟味せずに行動した結果の最たる例ではないでしょうか?
少年は、怒りを露わにしながら文章を綴っていました。

   何故か?
己の善が、世界にとっての善ではない。
という単純な事に気付けないまま、行動を起こしてしまったからです。
行動を起こした少年は全くもって素晴らしいのですが、それとこれとは切り離して思考するべきです。

己にとって善だから喜ばれる、褒めてあげる。
己にとって悪だから嫌われる、叩いてもよい。
こうして文に起こせば、どれだけ異常な思考回路が脳みそに出来上がっているのかがご理解頂けると思います。
自覚していないだけで、誰しも少なからず似たような思考回路が存在します。

しかし、それを否定してはいけないのです。
その善、悪はこれまでの経験による判断。これを否定するということは、あなた自身のこれまでを否定することであり、なんら意味のないことであります。

ではどうやって、さきの少年のような思考を切り替えていけばよいのか?

端的に言えば、より深く善悪を考えてみる。
という事以外に、方法はありません。

そして、自身にとってのみの善に基づいた行動に対して、対象となった人がどう感じ、どう反応しようと受け入れなければならないのです。
善行も悪行も勝手に自分がしたくてしていること。相手がどう感じても、こちらには何も言う権利などないのです。

それを踏まえた上で、善悪の基準を自分の中に持つべきだと、俺は主張します。

何十万という人数で済むのかわからない程の人が信心する宗教に、その答えを見つけ出そうとするのもまた一つの、あなたなりの善悪を見つけるための判断ですし。

過去の最高裁の判断を読み漁って、犯罪者の裁かれ方から罪を紐解き、その元となる悪を知り、善を知るのも手法としては有効かもしれません。

ただ日々の中で感じる善悪に耳と心を研ぎ澄まし、自分なりの確固たる判断基準、物差しを作り上げるのも必要です。


一つだけ、声を大にして叫びたい。
大衆の意見に流されて善悪を決めてしまえば、あなたは悪にならずに済みます。
ですが、善も見つけられずに死にます。
本当の善も悪もわからずに、あなたは踊らされたまま、踊り疲れて死にます。
本来の目的を果たせずに心が死に、あなたという個性が死に、あなたが死んだ後、肉体も滅びるのであなたという存在は消え去ります。

当然の事だと思われますか?
ではなぜ歴史はあるのでしょう。
なんの変哲も無い人は教科書に載りませんし、載せる意味もありません。

    何故か?
善悪の判断を他者に任せて流されている人間には、後世に伝えるほどの存在価値がないからです。
いてもいなくても同じですよね? そんなロボットみたいな人は。

昨今はAIの進歩が著しく、あと数十年すれば仕事とされている単純作業で、人間は賃金をもらえなくなるそうですが、これを悲観している人は恐らく自分で物事を考える能力が低いのではないかと思います。人がやるべき事は考える事であり、肉体労働ではないのです。

そんなことはAIに任せて、俺やあなたは考えていきませんか?
この脳の機能を無駄にせず生きていきませんか?
この心の意味を忘れずに、生きていきませんか?

自分で感じた事に自信を持つことで、善悪の判断は確固たるものになります。


あなたにはロボットになって欲しくない。
どうかこの願いが届くことを祈っています。