思考の絞りカス

日頃の思考の絞りカスを盛り付けました

羞恥心と生きるということ

「バカな人」と呼ばれる事が多い人は、何故そのような不名誉を手に入れてしまうのか。
バカな人と呼ばれない人とは具体的に何が違うのか。

おれの読んだ本の中に、「孤独が男を変える」という本がある。この本の著者である里中さんはなかなかロックな人なので、ぜひご一読頂きたいのだけれど、なにせロックな人なので完全に同意できる内容というものが少ない。
極端で、反論されまくるであろう内容を平気で書き綴り、ミリオンセラーを達成するような人なのだ、言っていることに筋は通っているが毛嫌いする人もそれなりにいる。
そんな里中さんの言葉で、この「バカな人」についての言及がなされていたので少し御紹介をさせて頂く。

バカな人とバカじゃない人の違いを「恥ずかしいことやバカなことを、人目につくところで行うか行わないか」という言葉で定義しておられた。
俺はこの言葉に完全に同意するのだけれど、皆さんはどうだろうか。

「バカな人」についての定義はひとまずこのままで進めるのだが、もう少し深く掘り進めてみたい。


恥ずかしいこと、バカなこととは何か?


人には物心ついた時から「羞恥心」というものが備わっている。
これは、行動を起こそうと考えた時、それが社会通念や道徳に照らし合わせても恥ずかしくない行為かどうかを改めて俺たちに思い直させてくれる、いわばお助けアイテムとしての機能を持っている。

羞恥心が機能しない人は原則として、存在しない。人にはそもそも本能として羞恥心が備わっているはずだし、その機能が何らかの原因によって働きを停止したと考えるのが妥当だろう。
であれば、羞恥心がない人をバカだとして、なぜ羞恥心がなくなってしまったのか。
なぜ、自らバカだと呼ばれるような行動をとることに対して抵抗が無くなってしまうのか。そこにこそ、議論の必要性があると思う。

バカな人をバカだと切り捨てている人は、自分がバカではないと思っているかもしれないが、何故バカでないと言い切れるのか。

何故バカな人はバカなのか。

そこを理解し、バカであることに理由があると見抜けないようでは、同じ穴のムジナ……とまでは言わないが、わざわざ同じレベルの場所に留まって、わざわざ糾弾することで自己を確立しているだけのように映ってしまう。

そんなバカから脱するために、またバカの実態を知るために、羞恥心が機能停止する理由について考えてみよう。



まず初めに、本能は本能として存在するが、それが適用される状況や対象は、時代や環境によってとても大きく変わるということ。

縄文時代は狩りをして飢えを満たした。それは原始的欲求である食欲を満たすことで生存する、という本能に基づいた行動だ。

対して現代では狩りをしている光景に出会うことはほぼ無い。釣りやプランターなどは趣味として行われていて、生存のための本能による行動ではなくなったし、現代人はもっと違うものを狩る必要性に駆られているからだ。

それは何か。
そう、女の子である。生存のため、ひいては生殖のためにも異性の存在は不可欠な現代において、むしろアクセサリー代わりにも素敵なパートナーは重宝される存在であり…………失礼、おふざけが過ぎた。


正直な話、現代人が狩るものは「お金」に変わった。それだけのことだ。
今でも人間はものを食べなくては生きていけないという欠陥を抱えて生きているから、動物を殺してくれる人はいるし、加工して食肉にしてくれる人もいる。人間という動物の本質は動物を狩っていた時代から何も変わっていない。

しかし、全く本質が変わらない以上、本能が変化することもありえない。つまり縄文時代から本能は変化していないのに
「本能がもたらす行動の指針はガラリと変わってしまった」
と言えるだろう。

それでは羞恥心の話に戻るが、羞恥心は本能と同じだ。
生きていく上で大切な機能を持っている。

社会的動物である人間が社会からハブかれるということはすなわち死を意味する。一人で生きていけない弱い動物が人間だ。
そんな人間という動物が、ハブかれないように、社会を形成できるようにと備え付けられた機能が羞恥心なのだ。

ライオンで言えば牙や爪、蛇で言えば牙と毒の役割を果たすこの羞恥心によって、俺たちはやって良いことと悪いことをある程度判断できるように出来ている。

そんな羞恥心の警告を無視した行動を取れば、もちろん社会的にハブかれるし、ハブかれたくない人間はハブかれている人間に寄り付こうとはしないから、より孤独になる。
それが先に挙げたバカな人、という訳だ。

さらに詳しく考えてみると、社会的にハブかれたバカな人の取る対抗反応は二通りある。
一つめは社会を恨む
二つめは自己の属する社会を盲信する

この二つだと俺は思う。
一つめの社会を恨む人は、自身が取った行動、つまり羞恥心の警告を無視した行動自体を正当化するため、社会を否定し自己を肯定する。しかし社会的動物である人間はハブかれた存在の声には耳を傾けない。例えハブかれた少数派の声が、客観的に見れば明らかな真実であったとしても、間違っていたとしても、社会を尊重するように出来ているからだ。それは本能だ。

この際どちらがバカか、という議論は置いておいて、次に行こう。

二つめの自己が属する社会を盲信する、という事については、ヤンキー漫画が分かりやすいだろう。
先に誤解を招かないように記しておくと、俺はクローズよりもドロップが好きだ。つまりヤンキー漫画に抵抗はないし、むしろ好きな方かもしれない。
だが盲信はしていないし、お話の世界だと理解して楽しんでいる。
しかし世界は広いもので、その区別をつけられない人も一定数存在することは周知の事実だと思う。
べつに街にたむろする輩を批判する訳ではないけれど、彼ら彼女らにはその世界が絶対的なものとして目に映っている。
ある意味別世界の住人と言い換えて差し支えない。

ここで思い出してほしい、羞恥心や本能の働きは、状況や環境によって変化するという先ほどの話を。

つまり彼ら彼女らの羞恥心は、俺たちが言う所の正常さを失っているのだ。
そしてあくまで俺たち基準での話だから、どちらが良いとかいう話ではないことを再三記しておく。

ここまで読んでいただけたのなら、基準となる羞恥心の働きそのものが変わってしまうと、その差は極端な話、縄文時代の人間と現代人程度の差になる事が分かってもらえるだろう。

つまり彼ら彼女ら、俺たちで言う所のバカと呼ばれる人たちにとっては、自身の行動は確固とした理念に基づき判断された結果であるわけだ。
ちょうど俺たちが何の迷いもなく仕事をして、あるいは勉強をして疲れて帰宅して、自分は今日も頑張ったと思うように。
彼ら彼女らが喧嘩に明け暮れ、警察のお世話になりながらも自身の感情を害するものを排除せんと躍起になることも。
どちらも本能に基づいた行動であると言える以上、どちらが優れているとか意味があるとか、そういった議論に意味などないのだ。
強いて言うなら違う世界の違う基準に生きていると認識すべき事柄を、あたかも相手がおかしいかのように槍玉に挙げて糾弾することが果たして賢明なのか、俺には首を傾げざるをえない。

人にはそれぞれ羞恥心がある。それはある程度、属する世界に左右されるが、個々によって大小様々である事を今一度見直すべきであると考えている。
人の前に出られない人がいれば、前に出て目立ちたがる人もいる。それは恥ずかしいと思う基準が違うからであり、善悪で語れるほど単純なものではない。

それを踏まえた上で、もう一度考えてみてほしい。
あなたの目の前で「バカな事」を平気で行う人を、あなたはバカだと切り捨てるだけで良いのか。
あなたにとって「バカな事」とは何なのか。俺たちはよく考えてみるべきなのではないか。