思考の絞りカス

日頃の思考の絞りカスを盛り付けました

書ける人、書けない人

小説家とはなんだろう。ふと考えてみる。
もちろん文章を書くことでお金をもらう仕事に就いている人であるし、つまるところタダで文字という手段を間借りして自分の表現の道具とし、使役して様々な情動を読んだ人に与える文章を書く人々のことだと思う。

情動とは、どのような時に生まれるのだろうか。
激しく感動するのは、どんな時だろうか。
ある時は可笑しさに腹がよじれ、ある時は明日仕事を休もうかと考えるほどに落ち込み、ある時はもう死んだっていいやと思えるほどの絶景に身を打たれ、ある時は本当に心が死んでしまう程の涙が流れる経験をする。
それらは、情動と呼んで差し支えないのではないか。
そしてそれらは、おいそれと経験できるものではない。

例えばエンジェルフォールが家の近くにあって毎日見ているような人は、エンジェルフォールを見て涙を流しはしないが、旅人はエンジェルフォールを見て情動し、涙を流すだろう。
例えば日々辛いいじめに遭い心を砕いている子にとって、その日々は辛くとも日常の一つとなりうるが、立場が恵まれている人間がある日突然拒絶され孤立すればいとも容易く日常を手放し、非日常に感情を曇らせ、涙を流すだろう。

つまり情動とは、ある意味自分のキャパシティを超えることでのみ起こりうる現象だと思う。
心の振れ幅を振り切ってしまう程の圧倒的な経験、そしてそれによって動かされた心がたまらず反応してしまうのが情動だと思うのだ。

だとすれば、私たちは常にそんな経験を積むことなどできはしない。なぜなら人間は安寧を求め、安定を望む生き物だから。わざわざ不安定な状態に心を置いておこうとは思わない。
不安定の頂上である情動は、そんな日常を打ち破った先でのみ出会えるものだから、そうそうお目にかかることはない。

そんな私たちの、安寧を求めつつも不安定を熱望するわがままを叶えてくれる存在。
それこそが小説家なのだと、私は思う。

言葉の持つ力は、響きや由来の美しさによる癒しだけではない。むしろそれらは土台でしかなく、言葉の力の本命は、言葉自身が持つ意味を伝えられた相手に想起させ、強制的に連想させる魔力にある。

美しい言葉が美しいのは、その言葉を受け取った人が、自身の経験の中から美しかったものを選び取り、無意識で想起するからだ。
汚い言葉が汚いのも同じ理由で、私たちは自分の経験を想起し、言葉の意味を受け取っている。
だから同じ美しい言葉を受け取っても、人によって美しさの度合いは変わる。


それでも、その人が持つ最大の美しい、汚い、を引き出すことで情動を人工的に引き起こす。
それが小説であり、小説家の目指すところではないかと思う。


小説を書くことで人を助けたい、感動を生みたい、伝えたいと思うことは小説家にとって当たり前だ。
それはテーマでありコンセプトとも呼ばれるもので、いわば小説において核となる存在だが、それは書き手の傲慢でしかない。
読み手が何を求めているのかなんて、書き手には分からない。だから書き手のエゴが小説のテーマでありコンセプトになるのは当たり前だ。
その上で、その書き手のエゴをエゴのままに終わらせず、読み手に影響をあたえるものに昇華できる。それが小説の持ち味だ。

そのための手段として、小説家は自分の心の振れ幅を大きくする。
それは良くも悪くも、日常から非日常を得ようと努力し、ちいさな出来事から心の振れ幅を超える何かを見つけようとする、ということ。
それは深い洞察によって、単純にたくさんの経験によって、豊かな感受性によって可能とされるが、いずれにせよ「小説を書くことで人を助けたい、感動を生みたい、伝えたいと思うこと」が出来なければ、当然のごとく、深い洞察もたくさんの経験も豊かな感受性も、無意味な能力となるだろう。

小説を書きたい人は、小説に救われた人。
小説を書きたい人は、小説の持ち味を理解し活かしたいと思える人。
小説を書きたい人は、情動を小説によってもたらされた経験がある人。
そして何より、人の痛みがわかる人。痛みに限らず、他者が喜ぶことを理解している人。自分の痛みや喜びを通して客観的に世の中や他者を見つめられる人。
最後に、そんな自分の能力を活かそうと思い立った勇気ある人。

書ける人は、そういう人だと思う。
書けない人は、この文から何かを感じ取って書ける人になって欲しい。
俺も書ける人になりたい、いつの日か。