思考の絞りカス

日頃の思考の絞りカスを盛り付けました

マクロとミクロ

 
 人は都合よく生きていくことで、辛い人生をできるだけ上手く乗り切ろうと企む生き物だ。
 それ自体は間違っていないし、合理的だと思う。
 つまり都合よく生きる、とはどういう事か。俺の例で少し考えて欲しい。

 まず、俺の父親は人を殺している。酒気帯びで人を轢き殺し、実刑判決を受けて牢屋に入っていた事があるらしい。
 らしい、というのは俺が生まれる前の事件である上に、本人の口から聞いたわけではないから事実確認が出来ていないという理由で言い切りの形にはしない。だが確実と言っていいだろう。

 そして、その事実に対してマクロな視点で見てみよう。父親と母親はもう離婚しているため、俺と父親は何年も会っていないし会いたいとも思わない。
 だが父親が人を殺したという事実は変わることなくこの世界に存在し、償うことのできない罪として血に刻まれている。それは父親に、そして子である俺にも少なからず刻まれている。俺は父親を父親だと思っていないが、世の中は違う。
 俺は人殺しの息子、としてこの世に生を受け、今もこうしてのうのうと生きているわけだ。
 そこに俺の意思や性格、趣味嗜好などは関係なく、ただ世間から貼られた人殺しの息子というレッテルのみが力を持つ。
 考えてみて欲しい。
 あなたには好きで好きでたまらない恋人がいたとして、結婚を考える歳になった。お互い仕事も落ち着いてきたので、両親へ挨拶をしに行った。その際、唐突に告げられる人殺しの息子、娘であるという事実は、いとも簡単に恋路を塞ぐだろう。

 そんなことはない、と思うだろうか。
 ではあなたは、生まれ育った家族と恋人、どちらか一方しか選べないとすれば、どうだろう?
 迷っただろう、その迷いはやがて結婚後に溝となり傷となる。後に傷となるその迷いこそが、上で恋路を塞ぐ、と書いた人殺しの子供というレッテルなのだ。
 あなたがよくても周囲がよくない、という問題に対処しなければならない。すると必然的に内面などはどうでもよく、ただ人殺しの子供というレッテルとどう向き合うかのみが問題となる。これがマクロな視点での考え方だ。


 では逆にミクロな視点での考え方だが、つまり個人にピントを合わせる考え方。
 俺は人を殺さないし、もちろん殺したことなんてない。だから俺は人殺しじゃないし、例えば親族が人を殺していても自分には関係がない、という視点がミクロな視点。


 子供からすれば、 ただ生まれただけなのだからこの考え方は正しいし、少なくとも間違いではない。だが子供はいつか大人になり、責任を知らなくてはならない。その時どちらの視点を採用するか、それが都合よくものを選ぶということ。


 マクロな視点は社会的に正しい視点を採用すること。ミクロな視点は自身にかかる因果関係のみに焦点を当てているから社会的にどうかは二の次。

 おれは今までミクロな視点で物事を見ていた。おれが殺したわけじゃないからおれには関係ないなんて、ありえないことを考えてもいた。
 でも気づいた。
 マクロもミクロも正解で、間違いなんてないということに。
 俺には人と仲良くなったり、付き合ったりする権利がない上、もっとへりくだって生きていく必要があるということが分かった。

何書いてるかわからなくなってきた。もうダメかもしれない。

羞恥心と生きるということ

「バカな人」と呼ばれる事が多い人は、何故そのような不名誉を手に入れてしまうのか。
バカな人と呼ばれない人とは具体的に何が違うのか。

おれの読んだ本の中に、「孤独が男を変える」という本がある。この本の著者である里中さんはなかなかロックな人なので、ぜひご一読頂きたいのだけれど、なにせロックな人なので完全に同意できる内容というものが少ない。
極端で、反論されまくるであろう内容を平気で書き綴り、ミリオンセラーを達成するような人なのだ、言っていることに筋は通っているが毛嫌いする人もそれなりにいる。
そんな里中さんの言葉で、この「バカな人」についての言及がなされていたので少し御紹介をさせて頂く。

バカな人とバカじゃない人の違いを「恥ずかしいことやバカなことを、人目につくところで行うか行わないか」という言葉で定義しておられた。
俺はこの言葉に完全に同意するのだけれど、皆さんはどうだろうか。

「バカな人」についての定義はひとまずこのままで進めるのだが、もう少し深く掘り進めてみたい。


恥ずかしいこと、バカなこととは何か?


人には物心ついた時から「羞恥心」というものが備わっている。
これは、行動を起こそうと考えた時、それが社会通念や道徳に照らし合わせても恥ずかしくない行為かどうかを改めて俺たちに思い直させてくれる、いわばお助けアイテムとしての機能を持っている。

羞恥心が機能しない人は原則として、存在しない。人にはそもそも本能として羞恥心が備わっているはずだし、その機能が何らかの原因によって働きを停止したと考えるのが妥当だろう。
であれば、羞恥心がない人をバカだとして、なぜ羞恥心がなくなってしまったのか。
なぜ、自らバカだと呼ばれるような行動をとることに対して抵抗が無くなってしまうのか。そこにこそ、議論の必要性があると思う。

バカな人をバカだと切り捨てている人は、自分がバカではないと思っているかもしれないが、何故バカでないと言い切れるのか。

何故バカな人はバカなのか。

そこを理解し、バカであることに理由があると見抜けないようでは、同じ穴のムジナ……とまでは言わないが、わざわざ同じレベルの場所に留まって、わざわざ糾弾することで自己を確立しているだけのように映ってしまう。

そんなバカから脱するために、またバカの実態を知るために、羞恥心が機能停止する理由について考えてみよう。



まず初めに、本能は本能として存在するが、それが適用される状況や対象は、時代や環境によってとても大きく変わるということ。

縄文時代は狩りをして飢えを満たした。それは原始的欲求である食欲を満たすことで生存する、という本能に基づいた行動だ。

対して現代では狩りをしている光景に出会うことはほぼ無い。釣りやプランターなどは趣味として行われていて、生存のための本能による行動ではなくなったし、現代人はもっと違うものを狩る必要性に駆られているからだ。

それは何か。
そう、女の子である。生存のため、ひいては生殖のためにも異性の存在は不可欠な現代において、むしろアクセサリー代わりにも素敵なパートナーは重宝される存在であり…………失礼、おふざけが過ぎた。


正直な話、現代人が狩るものは「お金」に変わった。それだけのことだ。
今でも人間はものを食べなくては生きていけないという欠陥を抱えて生きているから、動物を殺してくれる人はいるし、加工して食肉にしてくれる人もいる。人間という動物の本質は動物を狩っていた時代から何も変わっていない。

しかし、全く本質が変わらない以上、本能が変化することもありえない。つまり縄文時代から本能は変化していないのに
「本能がもたらす行動の指針はガラリと変わってしまった」
と言えるだろう。

それでは羞恥心の話に戻るが、羞恥心は本能と同じだ。
生きていく上で大切な機能を持っている。

社会的動物である人間が社会からハブかれるということはすなわち死を意味する。一人で生きていけない弱い動物が人間だ。
そんな人間という動物が、ハブかれないように、社会を形成できるようにと備え付けられた機能が羞恥心なのだ。

ライオンで言えば牙や爪、蛇で言えば牙と毒の役割を果たすこの羞恥心によって、俺たちはやって良いことと悪いことをある程度判断できるように出来ている。

そんな羞恥心の警告を無視した行動を取れば、もちろん社会的にハブかれるし、ハブかれたくない人間はハブかれている人間に寄り付こうとはしないから、より孤独になる。
それが先に挙げたバカな人、という訳だ。

さらに詳しく考えてみると、社会的にハブかれたバカな人の取る対抗反応は二通りある。
一つめは社会を恨む
二つめは自己の属する社会を盲信する

この二つだと俺は思う。
一つめの社会を恨む人は、自身が取った行動、つまり羞恥心の警告を無視した行動自体を正当化するため、社会を否定し自己を肯定する。しかし社会的動物である人間はハブかれた存在の声には耳を傾けない。例えハブかれた少数派の声が、客観的に見れば明らかな真実であったとしても、間違っていたとしても、社会を尊重するように出来ているからだ。それは本能だ。

この際どちらがバカか、という議論は置いておいて、次に行こう。

二つめの自己が属する社会を盲信する、という事については、ヤンキー漫画が分かりやすいだろう。
先に誤解を招かないように記しておくと、俺はクローズよりもドロップが好きだ。つまりヤンキー漫画に抵抗はないし、むしろ好きな方かもしれない。
だが盲信はしていないし、お話の世界だと理解して楽しんでいる。
しかし世界は広いもので、その区別をつけられない人も一定数存在することは周知の事実だと思う。
べつに街にたむろする輩を批判する訳ではないけれど、彼ら彼女らにはその世界が絶対的なものとして目に映っている。
ある意味別世界の住人と言い換えて差し支えない。

ここで思い出してほしい、羞恥心や本能の働きは、状況や環境によって変化するという先ほどの話を。

つまり彼ら彼女らの羞恥心は、俺たちが言う所の正常さを失っているのだ。
そしてあくまで俺たち基準での話だから、どちらが良いとかいう話ではないことを再三記しておく。

ここまで読んでいただけたのなら、基準となる羞恥心の働きそのものが変わってしまうと、その差は極端な話、縄文時代の人間と現代人程度の差になる事が分かってもらえるだろう。

つまり彼ら彼女ら、俺たちで言う所のバカと呼ばれる人たちにとっては、自身の行動は確固とした理念に基づき判断された結果であるわけだ。
ちょうど俺たちが何の迷いもなく仕事をして、あるいは勉強をして疲れて帰宅して、自分は今日も頑張ったと思うように。
彼ら彼女らが喧嘩に明け暮れ、警察のお世話になりながらも自身の感情を害するものを排除せんと躍起になることも。
どちらも本能に基づいた行動であると言える以上、どちらが優れているとか意味があるとか、そういった議論に意味などないのだ。
強いて言うなら違う世界の違う基準に生きていると認識すべき事柄を、あたかも相手がおかしいかのように槍玉に挙げて糾弾することが果たして賢明なのか、俺には首を傾げざるをえない。

人にはそれぞれ羞恥心がある。それはある程度、属する世界に左右されるが、個々によって大小様々である事を今一度見直すべきであると考えている。
人の前に出られない人がいれば、前に出て目立ちたがる人もいる。それは恥ずかしいと思う基準が違うからであり、善悪で語れるほど単純なものではない。

それを踏まえた上で、もう一度考えてみてほしい。
あなたの目の前で「バカな事」を平気で行う人を、あなたはバカだと切り捨てるだけで良いのか。
あなたにとって「バカな事」とは何なのか。俺たちはよく考えてみるべきなのではないか。

書ける人、書けない人

小説家とはなんだろう。ふと考えてみる。
もちろん文章を書くことでお金をもらう仕事に就いている人であるし、つまるところタダで文字という手段を間借りして自分の表現の道具とし、使役して様々な情動を読んだ人に与える文章を書く人々のことだと思う。

情動とは、どのような時に生まれるのだろうか。
激しく感動するのは、どんな時だろうか。
ある時は可笑しさに腹がよじれ、ある時は明日仕事を休もうかと考えるほどに落ち込み、ある時はもう死んだっていいやと思えるほどの絶景に身を打たれ、ある時は本当に心が死んでしまう程の涙が流れる経験をする。
それらは、情動と呼んで差し支えないのではないか。
そしてそれらは、おいそれと経験できるものではない。

例えばエンジェルフォールが家の近くにあって毎日見ているような人は、エンジェルフォールを見て涙を流しはしないが、旅人はエンジェルフォールを見て情動し、涙を流すだろう。
例えば日々辛いいじめに遭い心を砕いている子にとって、その日々は辛くとも日常の一つとなりうるが、立場が恵まれている人間がある日突然拒絶され孤立すればいとも容易く日常を手放し、非日常に感情を曇らせ、涙を流すだろう。

つまり情動とは、ある意味自分のキャパシティを超えることでのみ起こりうる現象だと思う。
心の振れ幅を振り切ってしまう程の圧倒的な経験、そしてそれによって動かされた心がたまらず反応してしまうのが情動だと思うのだ。

だとすれば、私たちは常にそんな経験を積むことなどできはしない。なぜなら人間は安寧を求め、安定を望む生き物だから。わざわざ不安定な状態に心を置いておこうとは思わない。
不安定の頂上である情動は、そんな日常を打ち破った先でのみ出会えるものだから、そうそうお目にかかることはない。

そんな私たちの、安寧を求めつつも不安定を熱望するわがままを叶えてくれる存在。
それこそが小説家なのだと、私は思う。

言葉の持つ力は、響きや由来の美しさによる癒しだけではない。むしろそれらは土台でしかなく、言葉の力の本命は、言葉自身が持つ意味を伝えられた相手に想起させ、強制的に連想させる魔力にある。

美しい言葉が美しいのは、その言葉を受け取った人が、自身の経験の中から美しかったものを選び取り、無意識で想起するからだ。
汚い言葉が汚いのも同じ理由で、私たちは自分の経験を想起し、言葉の意味を受け取っている。
だから同じ美しい言葉を受け取っても、人によって美しさの度合いは変わる。


それでも、その人が持つ最大の美しい、汚い、を引き出すことで情動を人工的に引き起こす。
それが小説であり、小説家の目指すところではないかと思う。


小説を書くことで人を助けたい、感動を生みたい、伝えたいと思うことは小説家にとって当たり前だ。
それはテーマでありコンセプトとも呼ばれるもので、いわば小説において核となる存在だが、それは書き手の傲慢でしかない。
読み手が何を求めているのかなんて、書き手には分からない。だから書き手のエゴが小説のテーマでありコンセプトになるのは当たり前だ。
その上で、その書き手のエゴをエゴのままに終わらせず、読み手に影響をあたえるものに昇華できる。それが小説の持ち味だ。

そのための手段として、小説家は自分の心の振れ幅を大きくする。
それは良くも悪くも、日常から非日常を得ようと努力し、ちいさな出来事から心の振れ幅を超える何かを見つけようとする、ということ。
それは深い洞察によって、単純にたくさんの経験によって、豊かな感受性によって可能とされるが、いずれにせよ「小説を書くことで人を助けたい、感動を生みたい、伝えたいと思うこと」が出来なければ、当然のごとく、深い洞察もたくさんの経験も豊かな感受性も、無意味な能力となるだろう。

小説を書きたい人は、小説に救われた人。
小説を書きたい人は、小説の持ち味を理解し活かしたいと思える人。
小説を書きたい人は、情動を小説によってもたらされた経験がある人。
そして何より、人の痛みがわかる人。痛みに限らず、他者が喜ぶことを理解している人。自分の痛みや喜びを通して客観的に世の中や他者を見つめられる人。
最後に、そんな自分の能力を活かそうと思い立った勇気ある人。

書ける人は、そういう人だと思う。
書けない人は、この文から何かを感じ取って書ける人になって欲しい。
俺も書ける人になりたい、いつの日か。

善と善行について

4月も終わりに近づき、桜に狂喜乱舞していたとは思えないほどの落ち着きを見せていた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?
桜に狂喜乱舞していた人たちは、明日からの大型連休に狂喜乱舞している事と存じます、俺もその一人。

新生活を始めた方はそろそろ慣れてきましたでしょうか?
新たな環境や土地、仲間、生活は戸惑いこそすれ、振り返ってみれば素敵な思い出に変わっている事でしょう。今、昔の記憶を思い出すと、キラキラ輝いてはいませんか?そんな具合に、今の生活もキラキラ輝いてくるものです。



と、ここまでの出だしはとても常識人のような文体ですが、実際のところ俺はそんなに出来た人間じゃありません。
自ら望んだ環境に身を置きながら「辛い」だとか甘えてんじゃねえぞって思いながら文章打ってます笑

人はこうして、自分の心中を明かさずに取り繕い、誤魔化して生きています。
本心と違う事を言って笑う事もしばしば……経験ありますよね?

そんな中で人は、まれに「優しい人」を見つけます。いい人、とも言いますね。
そしてその人に好意を持ち、憧れ、場合によっては惹かれます。

  何故か?
  何故だと思いますか?少し、考えてみてください。



心地よい停滞を許してくれるから、ですよね。
辛い……と言えば
「今のままの君で良いんだよ」

面倒くさい……と言えば
「それは君にとって必要な事?やめても良いよ!」

というように、停滞を許す場として、存在してくれているからですよね。
それ自体は悪い事じゃありませんし、筋は通っています。だからそういった存在を否定しているわけではない事をあらかじめ記しておきます。

ですが、それらの言葉を向けてくる人の感情は、優しさではありませんよね。

許しが優しさならば、世界の様々な論理的決断に基づく許しが、優しさや甘えなどという曖昧な理由の産物になってしまいます。
例えば裁判の情状酌量、あれが裁判官の優しさでない事は明らかですし。
例えば宗教の懺悔、あれは神の教えの下で行いを告白し、聞いてもらう事に意味があり、神父の優しさではないですよね。

では許しとは何か?
許しとは、誤った解釈による価値観のズレを、より論理的、客観的な視点において、正してやる事。
良くも悪くも人の価値観は揺らぎますから、第三者がそれを正してやらなければ、いらないことに悩んだり苦しんだりしてしまう。
でもその価値観自体が誤っていたならば、その苦悩は必要ないものです。それを教えてあげる事が、許しだと俺は思っています。


世間一般の言う「優しさ」は、この「許し」による重荷の解消が、あたかも優しさによるものだという誤解の下に発言されているような気がしてなりません。そこの区別から、まずはさせていただきました。

やっと本題に入りますが、優しさとは何か?
こんな長い文章を読んでここまで来てくれた方がいらっしゃるなら、それは一つの優しさだと思いますが……笑

優しさとは、俺の定義では「善」です。
善意とか善行とか性善説、とか言いますよね。そのニュアンスの善です。
善ってよく聞きますが、あまり深く考えないんじゃないでしょうか?
俺は、
「善とは、見る人から見て正しい方向性の行動や思想」
だと定義します。
当たり前っちゃ当たり前ですよね。

想像してください。
あなたは中世の婦人です、夫は勇猛果敢な軍人として、甲冑を着て戦いに赴く生活をしています。そんな夫をあなたは愛し、祖国や家族のために戦う姿を尊敬しています。
そんなある日、とても大きな戦いが起こりました。長く続いた戦いが終わり、決着するほどの戦でした。
あなたは自国が勝ったという報らせを聞き、大喜び。夫も長い戦いの末、自分の守りたいものを守れて満足気です。
夫は功績を讃えられて、英雄として祀られることになりました。
不自由のない生活を送っていたある日、夫が刺されたという訃報が入ります。
犯人は敗戦国の国民で、あなたと同じように軍人の夫を持つ女性でした。
聞けば、あなたの夫に自分の夫が殺された恨みを晴らしたくて、刺し殺したそうなのです。
あなたは、その女性を悪だと断じ、罰せられる事を許可しますよね? むしろ、私刑として何か報復でもしてやりたくなりますよね?

「いやいや、俺はそんなことしないよ?」
そうですか? あなたの大事な人が目の前で殺されても、あなたは同じ事が言えるでしょうか?

善とは、移り変わるのです。
見る人の心持ちや視点によって、いとも簡単に変化してしまうものです。

つまり、この行動は正しく、善だろう! 
という断定が出来ないものでありますし、いつだって「自分の中の善でしかない」という事を肝に銘じておく必要があるのです。

電車で老人に席を譲ったのにも関わらず怒鳴られて、腹を立てている少年のコラムが新聞に掲載され、物議を醸した出来事がありましたが、ご存知でしょうか?
まさにあれこそ、善意や善行の意味を吟味せずに行動した結果の最たる例ではないでしょうか?
少年は、怒りを露わにしながら文章を綴っていました。

   何故か?
己の善が、世界にとっての善ではない。
という単純な事に気付けないまま、行動を起こしてしまったからです。
行動を起こした少年は全くもって素晴らしいのですが、それとこれとは切り離して思考するべきです。

己にとって善だから喜ばれる、褒めてあげる。
己にとって悪だから嫌われる、叩いてもよい。
こうして文に起こせば、どれだけ異常な思考回路が脳みそに出来上がっているのかがご理解頂けると思います。
自覚していないだけで、誰しも少なからず似たような思考回路が存在します。

しかし、それを否定してはいけないのです。
その善、悪はこれまでの経験による判断。これを否定するということは、あなた自身のこれまでを否定することであり、なんら意味のないことであります。

ではどうやって、さきの少年のような思考を切り替えていけばよいのか?

端的に言えば、より深く善悪を考えてみる。
という事以外に、方法はありません。

そして、自身にとってのみの善に基づいた行動に対して、対象となった人がどう感じ、どう反応しようと受け入れなければならないのです。
善行も悪行も勝手に自分がしたくてしていること。相手がどう感じても、こちらには何も言う権利などないのです。

それを踏まえた上で、善悪の基準を自分の中に持つべきだと、俺は主張します。

何十万という人数で済むのかわからない程の人が信心する宗教に、その答えを見つけ出そうとするのもまた一つの、あなたなりの善悪を見つけるための判断ですし。

過去の最高裁の判断を読み漁って、犯罪者の裁かれ方から罪を紐解き、その元となる悪を知り、善を知るのも手法としては有効かもしれません。

ただ日々の中で感じる善悪に耳と心を研ぎ澄まし、自分なりの確固たる判断基準、物差しを作り上げるのも必要です。


一つだけ、声を大にして叫びたい。
大衆の意見に流されて善悪を決めてしまえば、あなたは悪にならずに済みます。
ですが、善も見つけられずに死にます。
本当の善も悪もわからずに、あなたは踊らされたまま、踊り疲れて死にます。
本来の目的を果たせずに心が死に、あなたという個性が死に、あなたが死んだ後、肉体も滅びるのであなたという存在は消え去ります。

当然の事だと思われますか?
ではなぜ歴史はあるのでしょう。
なんの変哲も無い人は教科書に載りませんし、載せる意味もありません。

    何故か?
善悪の判断を他者に任せて流されている人間には、後世に伝えるほどの存在価値がないからです。
いてもいなくても同じですよね? そんなロボットみたいな人は。

昨今はAIの進歩が著しく、あと数十年すれば仕事とされている単純作業で、人間は賃金をもらえなくなるそうですが、これを悲観している人は恐らく自分で物事を考える能力が低いのではないかと思います。人がやるべき事は考える事であり、肉体労働ではないのです。

そんなことはAIに任せて、俺やあなたは考えていきませんか?
この脳の機能を無駄にせず生きていきませんか?
この心の意味を忘れずに、生きていきませんか?

自分で感じた事に自信を持つことで、善悪の判断は確固たるものになります。


あなたにはロボットになって欲しくない。
どうかこの願いが届くことを祈っています。




無題

今週のお題「私がブログを書く理由」


俺の頭の中で、取り留めもなく渦巻く思考は大体が無駄で蛇足で下らない要らないものなんだけど、時たま光ってる物が出てきたりするんです。


その時には要らないと思っても、あとで見直すと重要な事に気付いていたり、なるほどなと思う事がたくさんあるので、記しておこうと思いました。

ツイッターでも同じように呟いているけど、長文になりそうな時はこっちで記しておこうかなと思ったのが、ブログを始める理由です。

思考の絞りカス

日頃、言葉や出来事の定義を丁寧に磨いて、あてはめてから元の場所に戻す作業を行っているので、その中で出てきた絞りカスを、このブログに綴りたいと思っています。


まさか人が読むとは思いませんが、人に文章を読んでもらう仕事をしたいと思っているので、一応読んでいただいているという仮定のもと、書かせていただきます。練習も兼ねて。